またも冤罪 足利事件。許されない警察、検察、裁判所。

 1990年5月12日に足利市のパチンコ店駐車場から当時4歳の女児が行方不明になり、翌日、近くの渡良瀬川河川敷で遺体で見つかった足利事件の犯人とされ、無期懲役が確定していた菅家さんが6月4日に釈放された。菅家さんが犯人とされた最大の根拠であったDNA鑑定の結果が覆されたためである。

 今回の事例は、日本の警察及び司法の非常に重要な問題点をさらけ出したと考える。以下にその問題点を列挙する。

@江戸時代と何ら変わらない自白偏重主義の問題
 既に鹿児島選挙違反事件 前時代的な警察と検察 これで処分無しか?富山県警強姦冤罪事件「処分者なし」に思うでも述べたと思うが、未だに警察や検察は証拠に基づいた適正な捜査ではなく、江戸時代と変わらない自白偏重主義で捜査を進めている点にある。この点については、マスコミでも何度も取り上げられ、現在では取調べの可視化も若干検討されるようになったが、森法相は5日の閣議後の会見で「取り調べの効果を十分にあげるためには全面的な録音録画は支障になる。いろいろなご意見があって、総合的な検討は必要だが、現時点では(可視化を)容認する方向の検討はしにくい」と述べている。訳の分からないことを未だに法相が言う。彼が言う「取調べの効果」とは、無実の人間を犯人にでっちあげることか。要するに彼は、問題点を抽出し、事態を改善しようとする意志も能力も全くありませんと自ら言っているのである。まあ、麻生内閣は選挙管理内閣として作られた内閣であるから、まともな事を要求しても無理だろうが。

 菅家さんは「髪の毛を引っ張られたり、け飛ばされたり。刑事の取調べが厳しく『白状しろ』『早くしゃべって楽になれ』と言われ、どうしようもなくなって自分がやったと言ってしまった」と説明している。これは完全に法律違反の違法捜査ではないのか。直ちに当時の刑事や取調べ担当者の氏名を公表して処分すべきである。時効はありえない。道義の問題である。

A不確実でいい加減なDNA鑑定を証拠採用した問題
 DNAは原理的には、世界中に同じ人間は一卵性双生児以外には存在しないのだろうが、捜査で採用するDNA鑑定は遺伝子の全ての塩基配列を解析しているわけではない。今回の事件で採用されたDNA型鑑定は435通りの型のどれに当てはまるかなどを識別する方式であったという。方法、技術にまだ問題があるレベルであったにもかかわらず、このDNA型鑑定を唯一絶対的な証拠として検察も裁判所も採用した。

 さらに今回の再鑑定をした弁護側の本田克也筑波大学教授は、旧鑑定書に添付されていた証拠のDNA型を示す帯グラフのような写真を見て、「これでよく同じ型と言えたな」と感じたという。また「DNA型鑑定は革新的な手法で、多くのケースで正しい結論を導くことは間違いない。しかし、残された試料の量が少なかったり、質が悪かったりするケースでは、今でも判定が難しいことに変わりはない。鑑定人の技能などで結論は左右される」とも話している。

 要するに当時のDNA型鑑定事態が全うに行われたか、それ自体が怪しいのである。今回の事件は正に鑑定人の技能で結論が左右された事例であろう。

BDNA再鑑定の結果による上告及び再審請求を棄却した裁判所の問題
 二審・東京高裁の無期懲役判決(96年)後、弁護側は上告中の97年に独自に依頼した鑑定でDNA型が異なる結果が出たとして最高裁に再鑑定を請求したが、最高裁は2000年に上告を棄却している。2002年に始まった再審請求審でも、宇都宮地裁は再鑑定を実施せずに08年に請求を棄却している。これは裁判所の怠慢以外の何ものでもないだろう。要するに裁判所は、物事の正否を判断する能力を有していないことを示しているのである。裁判員制度が出てきた背景もここにある。既に裁判所には物事を全うに判断する能力はないのである。

C検察が証拠を完全に握って隠蔽する日本の裁判制度の問題
 日本の刑事裁判の最大の問題点は、事件の証拠の全てを検察が独占し、全ての証拠を公開しないことにある。検察は容疑者が犯人であることを証明するのに不利な証拠は隠蔽し、有利な証拠のみを裁判に提出する。富山県警強姦冤罪事件でも、富山県警が現場に残った足跡と本人の足の大きさが異なる点や、DNA鑑定結果などの証拠を隠匿したと指摘されている。日本の多くの冤罪事件は、この検察による証拠独占によって引き起こされているのである。
 今回の旧DNA型鑑定結果も裁判で十分に証拠能力を検証する機会が与えられていれば、今回の冤罪は防げたのではないか。全ての証拠を開示し、弁護側、検察側がその証拠に基づいて主張できる体制も整っていない日本の裁判制度は、欠陥制度である。

Dマスコミの問題点抽出能力劣化の問題
 新聞を始めとするマスコミの社会的責任の一つは、個々の事象の深層に潜む問題点を抽出して、問題提起することである。
 警察や検察の言い分をそのまま報道することが仕事ではない。
 これは全ての事についていえる。例えば、小泉−竹中のアメリカ追従の政治路線をマスコミは絶賛してきた。郵政民営化もアメリカから日本に対する年次改革要望書に記載されている事項で、アメリカの圧力に沿った政策であるのにその事を指摘するマスコミはほとんどない
 マスコミは意図的に知らぬ振りをしているのか?
 今回の足利事件の報道にしても、検察の証拠独占問題にまで言及していない。マスコミは単なるオームになったのか。
 共同取材でどこも同じ記事。マスコミはそれで良いと思っているのか。
  会社の不祥事報道などでは、偉そうに記者が責任追及の質問などしているが、まずマスコミ関係者は自分達の問題点抽出能力が低下していることを自覚し、反省するべきである。マスコミの社会的責任の第一は、私は社会の問題点を抽出することにあると思っている。


 この足利事件で菅家さんが冤罪であったと言うことは、別に真犯人が存在することを意味する。警察の怠慢によって、真犯人を捕らえる機会を永遠に失ってしまったのである。この警察の責任は重大である。足利市周辺では他に幼女誘拐殺人または行方不明事件が5件発生している。警察はこの事をどう考えているのか。足利事件の前に発生した4件の誘拐・死体遺棄事件で栃木県警は誰かを犯人に仕立て上げようとしたのではないか
 迷宮入りという自分達の無能さを批判されるのを避けるために犯人を作り上げる。足利事件は栃木県警によって意図された冤罪事件ではないのか。私はその可能性は十分にあると考える。もし、そうでないなら警察は本事件の問題点と改善点を明確にして公表するべきである。
 実際に本田教授は、「これでよく同じ型と言えたな」と言っているのであるから、当時のDNA型鑑定に警察に都合の良い恣意が入っていたとしか考えられないではないか。

 このいい加減なDNA型鑑定を根拠に有罪にされた人間は数百人いるらしい。その中でも女児2人が殺害され、その犯人として昨年死刑が執行された飯塚事件の久間三千年(くまみちとし)元死刑囚は一貫して無実を主張していたという。この事件も調べるとおかしな点の多い事件である。逮捕前に検察が第三者機関による鑑定として帝京大学で行われた鑑定では、被告人のDNAと一致しないという結果が出たという。要するに検察は証拠を客観的に調べたのではなく、自分達に都合の良い証拠のみを提出し、それを裁判所が採用するという足利事件と同じ体質が見られるではないか。

 この久間三千年元死刑囚の死刑執行命令を出したのは、現在の麻生内閣の森英介法務大臣である。死刑判決順位61番目で一貫して無実を主張していた人間の死刑執行をなぜ急ぐ必要があったのか。森法務大臣は明確にすべきである。

 冤罪事件で長期収監されていた人たちの年金不需給が問題になっている。菅谷さんも国民年金を掛けていない、または免除申請していない等で年金が貰えない可能性がある。無期懲役囚が年金なんか掛けるわけないだろう。本当に役所仕事である。
 今回の事件に関わった警察、検察、裁判所の人間から金を集めて菅谷さんに年金を支払うべきである。

 国民も当事者も警察、検察、裁判所は強制力を持った暴力装置である事を認識すべきである。絶対に間違いは許されないから被告人は推定無罪の原則があるはずが、現状は検察が送検した被告人は99%有罪と裁判所は考えているのである。そこには検察と裁判所の癒着があるのである。

 今回、警察や検察がどこまで自分達の体質を反省し、改善できるかが問われている
 裁判所の体質も問題である。裁判所は独立が保たれなければならないが、裁判所も反省すべきである。
 日本人は自浄能力が低い。私はそれを心配している。同じ事を何度も繰り返す。

 警察と検察が今回の問題と改善点について早期に調査検討結果を公表することを望む

(2009年6月7日 記)

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